私は現在セビリアでフラメンコを学んでいます。
フラメンコの本場と言われるアンダルシアでフラメンコに触れられる機会を得て、
と感じることがあります。フラメンコを学んでいる人は、一度はぶつかったことがある壁なのではないかと。
スペインのセビリアでフラメンコを学んでいて、私が途方もなく感じることを気まぐれ日記に綴ります。前向きに書いてますので、愚痴じゃないです!
フラメンコヒターノ
私にとって目の前に立ちはだかる膨大な一番の壁は、フラメンコヒターノです。
私はフラメンコはヒターノ(ジプシー)のものだと思っています。そしてそれは特別なもの。
商業的なフラメンコが成長して、フラメンコが国際的な芸術になったとしても、フラメンコヒターノが特別であることは変わらない。
フラメンコの中でなんとも表現しがたいものが出てくる瞬間を目にしたことが何度かあります。これぞフラメンコヒターノの瞬間。
それは勉強して会得できるものではなく、ヒターノに流れている血、生活、文化など、ヒターノの人生そのものから出てくる何かだと思うのです。
一番最初にこれを感じたのは実は日本。故マヌエル・アグヘータが来日し、ライブを見に行った時です。
フラメンコを見て初めて怖いと思いました。
このままアグヘータの歌を聴いていたら魂を持って行かれてしまうのではないかと。
感動で涙が…というような話ではありません。とてつもない黒い渦の中に巻き込まれてしまいそうな怖さがあったのです。ブラックホールの中に吸い込まれるかのように。
怖い怖すぎる…!
フラメンコヒターノは、きっと私が語れるものではないです。何か特別なそれが、実際何なのかよくわかっていないから。
一生かかっても追いつくことのできない何かなのだろう。そう思います。
スペイン人にはなれない
日本で育った私がどんなにスペイン語の理解度をあげて、スペインの生活に慣れたとしても、スペイン人になることはできません。
スペイン人になりたいということではなく、スペイン人と同じ考えや気持ちで物事を理解することができないのではないかということ。
フラメンコを理解しようとするのに、言葉の壁は大きなものです。
日常会話やクラスでアーティストたちが話すことはわかるようになっても、スペインで育った人たちと同じ感覚でスペイン語を理解することはできない。
話の中で笑えるところが一緒か?
同じ反応をするか?
皮肉を褒め言葉と捉えていないか?
このajeワカンネ…
Si bailo tan malamente, viene la policia para meterme al carcel.
私がこんなに踊りが下手だったら(ironíaで実際はこんなに上手に踊ったら)、警察官が来て刑務所に入れられちゃうわ。と先生が言ったら日本人以外爆笑。日本人は理解できないらしいという結論で終わった。 — moni@セビージャで修行中💃🇪🇸 (@moni0623) October 29, 2019
言っていることがわかったとしても、スペインの文化の中で育ち、生活体験の上に成り立つ母国語として理解しているスペイン人には程遠いと感じるわけです。
アンダルシアでの生活体験
尊敬するフラメンコのアーティストたちは、「フラメンコな人たちとの生活体験をしなさい。それがフラメンコを理解する最も重要なことだから。」と言います。
スタジオで練習したりクラスを受けるだけでなく、一緒にご飯を食べたり、深夜まで飲んだり、遊びに行ったりといった日常を一緒に過ごすということ。
これは簡単なことではないです。
スペイン人は陽気で社交的なイメージがあるかもしれませんが、だからと言って既に築かれた人間関係に新参者が入っていくのはとても難しいこと。
日本で全員と友達になることはないのと同じで、フラメンコが好きだからと言ってみんな友達になれるわけじゃない。
仮住まいの外国人としてではなく、現地に根を下ろしてアンダルシアでの生活体験をするのは、フラメンコを学ぶにおいてとても重要なことであるのと同時に、とても難しいことだと感じます。
それでもフラメンコを学びます
スペインで生まれた時からフラメンコに触れている “本当にフラメンコな人たち” を見ると、フラメンコを学ぶことは途方もないことだなと感じることがあります。
前述したような言語、文化、生活環境の違いはもちろんのこと、コンパス、カンテへの理解、技術的な不足などなど挙げればキリがないくらいの膨大な壁がそこにはある。エベレストより高いがな!
でも、フラメンコを学ぶのをやめようと思ったことはない。
きっと一生かかっても全てを理解することはできないのかもしれないけど、だから今私はこうやってセビリアでフラメンコを学んでいくのだ。とんでもないものを好きになってしまったなと思いながら…。
最後まで読んでくれてありがとう。
Hasta luegui!!!
コメント